目撃したことは、「精神で振る指揮」ということ。これ、クラシック音楽界の最大の謎のひとつ「指揮種の能力」に関する問題で、先日、ぶったまげたロジェストベンスキー×読響に続き、最晩年にさしかかった指揮者がつくり出す音楽の「レベルが違う出来」をまざまざと体験。
もともと、マラ9は大好物の曲ですが、大好物の1楽章のあの超美メロのワンコーラス目にすでに不思議な含みと抑制がかかっている。(そう、このマラ9このメロと展開に任せてのびのび派手にやってもソレはまたよし、の曲なのだ)その「気配」は、未完成とも言われている第4楽章の終わり方のとてつもない静謐に向かってマグマのように熱を隠し持ちながら、展開していくのですよ。
終楽章の最後の小節に、マーラー自身がersterbend(死に絶えるように)と書き込んでいるように、この曲のテーマは「死」。巨匠の人生ももはやそこに直面しているだけに、の渾身の表現だったとは容易に想像できます。
それだと、私が最も忌み嫌う「何も音楽聴かなくたって、ストーリーに反応してるだけじゃん」という話なのですが(ネットの音楽評はそんなんばっかり)、具体的にはウィーンフィルの凄さは指揮者の指示を指先一本でも見逃すまい、という奏者ひとりひとりの気迫の凄さ。これ、今回、2列目という奇跡の席だったゆえ手に取るように解ったのですが、もう、コンマス男性と二番手の女性、ヴィオラの第一奏者、フロント陣が指揮者と三位一体(いや四、五位かな)でまるで真剣勝負のような隙の無さで音楽をつくっている。
ほら、よく剣の達人同士がにらみ合いを続けるじゃないですか、そんなエネルギーの回し方を想像してしまった。
で、ウィーンフィル、なんなんだ、この音響のつくりかたは! いや、もちろん「揃って」いるんですよ。しかし、そのユニゾンが全員でひとつの音波波形をつくっているかのようなユナイト。
というと、「みんないっしょ」の軍隊式統率法、しわゆる「型」を思い起こすのですが、完全にそうじゃないんだよなあ。横並びの精神ではなく、指揮者が発信するひとつの理想の周波数をキャッチして、個人が反応しているという感じ。自分の個性はあるのですが、チューナーの性能が抜群に良い奏者が揃っているのだと思います。
いやー、本当に凄いものを観させてもらいました。というか、もう、こんなスゴレベルの演奏がきけるならば、毎年、ザルツに行くかも。ていうか、ウィーンフィルだけでなく、今後はタイミングと指揮者とを読んで、海外に行くしかねぇ。
私は爆クラ! などで、クラブ耳にも届くクラシックを提案しているのですが、はっきり言って、初心者はこのクラスを聞かせたら一発ですよ。クラシックがお好きではない、近田春夫さんに聴いてもらいたかった。ホント、このあたりクラシック音楽とクラブミュージックは似ている。一期一会感の到達度の高さがとんでもない。
先代の中村歌右衛門のあの日の「政岡」、古今亭志ん朝のあの日の「文七元結」、あの日のジュニア・ヴァスケス、あの日のバート・バカラックと並ぶ、あの日のウィーンフィルになりそう。

と、ウィーンフィルのハードコアがありつつ、真逆のブログラムがあるのが、ザルツブルグ音楽祭のいいところ。
三日目の昼はザルツブルク・モーツァルテウム管弦楽団によるモーツァルトマチネ。音楽学校併設の豪華ホールでまあ、ここの伝統ある座付きオケということでしょう。
と、これが昨晩の鬼気迫るウィーフィルのマーラーと違って、良い意味でレッツエンジョイ系の明朗快活仕様。というか、常任指揮者のイギリス人、アイヴォー・ボルトンとコンマスがつくり出すビートが、はっきり言ってスラップスティック!!
コンマス氏は終始ニコニコ顔で、遅れてきた観客の客いじりを表情でするし、ボルトンに至っては、ビオラの指示が手をブルブル震わせてもの凄い形相で振りかぶってくる。これ、またしても最前列二列目なので(ホント、この良席を押さえてくれた、モラス彩子さん感謝です)、手に取るようにわかるのです。
これ、なんか知った世界だぞ、と思いきや、すぐに頭をよぎったのが我がニッポンの漫才コンビ。でぶっちょでマイムに近いシアトリカルなww指揮でガンガン進むボルトンと(この人ご面相が英国映画に出てくる炭鉱ストの首謀者っぽいのよ)、それをわはははの笑みでノリを演者と客席に伝えるコンマス氏(モンティパイソンのエリック・アイドルか? )。
と、その空気感は、映画「アマデウス」でもおなじみのモーツァルト音楽の本質のひとつでもあり、モーツァルトが市民の中でポッブス化しているザルツブルグの面目躍如でしょうね。
演奏は、それでもナイス。特にスケルツォな早いテンポの曲のさわやかな疾走ぶりが素敵。ボルトン、古楽アプローチの人なので、ホルン、チェンバロ、トランペットなどの響きを生かすのが巧みだったっす。
休憩は中庭に出て、シャンバンなのだ。




